蕭蕭天華に銀の龍昇りたる

 玉泉山に、つめたい風が吹いていました。
 透明できらきら光る湖も、いまは凍ってしずかに眠っています。この美しい山には金霞洞という洞があり、たいそう高名な玉鼎真人という仙人さまがお住まいになっています。仙人さまというのはとても長生きですが、ほんとうのお齢はだれにもわかりませんでした——あるいは少年のように見えることさえあるのです。このかたも三十か四十ほどのお齢に見えるお顔立ちでいらっしゃいました。あごには髭さえありません。
 凛とした佇まいと精悍な瞳に、しかしどこか人ならざる叡智が輝いていました。

 玉鼎にはちいさな弟子がいました。名を楊戩といい、まだ幼いのですが、とても利口な道士でした。
 ある日のこと、楊戩はそこらに積もったやわらかな粉雪をかきあつめては銀の|盥《たらい》に入れ、また洞府に戻ってゆきました。
 奥の部屋では玉鼎が床に|臥《ふ》しており、熱で牡丹のようにまっ赤になった額に、楊戩はかいがいしく溶けたばかりの雪水に布をひたし、汗でびっしょりと濡れた師匠の体を拭きました。拭いたそばから粒のような汗がにじんでくるので、長いことつめたい雪解け水をさわっている楊戩のお手手も紅葉のように赤くなっていました。
 やがて玉鼎が眠ったのを確かめると、楊戩はそうっと扉を開け、静かに師の寝室を出て、崑崙の地図を拡げてみました。崑崙山脈にはさまざまな仙人さまがおり、わけても終南山の玉柱洞には、雲中子というお方が仙薬を作っていると聞いたことがあったからです。
 いままで玉泉山を出たことはありませんでしたし、未熟なうちは決して誰とも会ってはならないと、かたく言いつけられていました。
 しかし、やさしいお師匠さまがただ苦しむのをこれ以上見てはいられません。どうしてもお医者さまに診ていただこうと決めました。お薬が必要です。
 大切な約束を破ろうとする楊戩を、屋根からおおきな鴉が見つめています。
 その眼を振り切るように、楊戩は駆け出しました。
 
 玉泉山から終南山へは、長く険しい山を下ってゆかねばなりません。楊戩はちいさな体で雪道を懸命に進みました。
 覚えたばかりの変化の術を使い、兎に変化しました。もっと疾くもっと疾くと虎に成り、鹿に成り、ほとんど落ちるように進みました。途中何度も休みましたが、そのたびに雪解け水を飲んでまた走り出しました。しかし終南山はあまりに遠く、やがてとっぷりと日が暮れてしまいました。
 雲が天を覆いはじめ、ぽつりとあった月も隠れてしまいそうでした。急がなければ、じきに雪が降り始めるでしょう。楊戩はもう何に成る力も残っていません。眠いような暑いような気持ちで雪の積もった上を這うように進みました。
 そのとき、遠くに杏の林が見えました。こんなに寒い冬だというのに、不思議と実をつけて、青々と葉が繁っているのがわかりました。花の咲いているところさえありました。
 楊戩はふわふわとした気持ちで歩み寄ると、ひとつ杏をもいで齧り付きました。まだ渋く酸っぱい実でしたが、ぱっちりと目は冴え、不思議と元気が湧きました。食べかけの杏を懐にしまいました。
 粉雪が舞いはじめ、しだいに吹雪いてあたりが一面の銀世界になっても、楊戩はまっしぐらに走りつづけました。
 

 とうとう雪道の果て、ほとんど人間界と思われる森に小さな洞府がありました。
 玉柱洞に着いたのです。
 ここに仙人さまがいて薬を作っているのだと思うと、胸がどきどきしました。師匠以外の仙人さまにお会いしたのは、もっとずっと小さい頃のことでした。
 楊戩は本で読んだ通り、トントンと戸を叩きました。
「こんばんは」
 中で誰かが動いたような音がして、緩慢に戸が開き、まぶしい光が雪を照らして目がくらみました。中には師匠よりも小柄な男が立っていました。天辺が四角い、ふしぎな帽子をかぶっています。
 男は楊戩に気がつくと、にこりと笑いました。
「坊や、どこから来たのかね?」
 楊戩はあっと思って、あわてて頭を下げました。そして自分の名を告げようとしましたが、緊張してうまく言葉が出てきません。もじもじと言いあぐねていると、男が先に口を開きました。
「まずは中に入りなさい。この天気では体がすっかり冷えてしまっているだろう」
 楊戩はお辞儀をしてお家の中に入りました。
 家の中には、乾燥した木の枝やら、茶色い小瓶に何か液体が入っているのやら、見たことのないものがたくさんありました。何より、嗅いだことのないにおいがそこかしこから感じられました。
 男は椅子のほこりを払って楊戩を座らせると、自分こそが終南山の主、雲中子であるといい、お茶を淹れてくれました。湯気のたつお茶はすこし甘く、雪で冷えた体をあたためてくれました。それでやっと楊戩は名を名乗ることができました。
「さて、きみが欲しいのは人間用の薬か、仙道の薬か、それとも妖怪のためのものかね?」
 楊戩はぎょっとしました。妖怪のお薬もあるとは思っていなかったのです。
「怖がらなくていい。病人に影響を与える薬というものは、誰の、どんな症状をどう変えたいのかを把握しなければならないんだ」
 そう言われると、楊戩は少し考えて、両手で顔を覆って、師匠のことを思い浮かべました。
 黙って出てきてしまったけれど、いまごろ起きて心配していないか、それともまだ熱に|魘《うな》されていないか不安になりました。
 そして手を退けると、その姿はまるで玉鼎真人になっていました。
「こんなお顔のひとがお熱で苦しんでいるので、そのお薬をいただきたいのです」
 雲中子は変化した楊戩の姿をしげしげと見つめると、服の裾などを摘んだり仰いだり、嗅いでみたりしましたが、やがて納得したようすで頷きました。
「待っていなさい。彼のカルテならすぐ出せる」
 そう言ってしばらく奥に引っ込むと、いくつも箱を携えて戻りました。そして慣れた手つきで木の実を砕いたり、その粉を合わせながら話し始めました。
「驚いたな。きみは、玉鼎真人の弟子なのかい?」
「師匠をご存じなのですか?」
「最後に会ったのは百年前だがね。あの玉鼎が弟子をとるとはなあ」
 楊戩は興奮して矢継ぎ早にまくしたてました。
「雲中子さまはお弟子を取らないのですか? このお山にはほかにも仙人さまがいらっしゃるのでしょうか?ほかの仙人さまにはどんな方がいるのですか?」
 いっぺんに浴びせられる質問に、雲中子は細い目をめいっぱい見開き、そして笑いました。
「そうか、きみが元始の秘蔵っ子か。まだ教わっていないことがたくさんあるんだね。それで変化の術を扱えるとは、たいしたものだ」
 雲中子は背伸びをして、玉鼎の姿の楊戩を撫でました。楊戩は師匠が褒めてくれる時のことを思い出すと、急に金霞洞が恋しくなりました。
「玉鼎は幸せだね、きみのような良い弟子がいて」
 ふいに、楊戩の胸のあたりがちくりとしました。きょうの朝まで、ほんとうに良い子でいたはずです。そして、良い子でいればいつかお父さまが迎えに来てくれるという期待を大切に持っていました。
「——ぼく、もう良い子ではないんです」
 もう寒くないはずの肩がちいさく震えていました。
「だって、ぼく、師匠との約束を守りませんでした。でも後悔しません。雲中子さま、師匠のためにお薬をください」
 雲中子は袋の中にいくつかの丸薬を入れました。
「これを持ってお行き。雪が止んだら診にゆくから、熱があるうちは飲ませなさい」
「ありがとうございます。これで金霞洞に帰れます。ぼくが知る一番疾い、一番強くて巨きいひとの姿で帰ります」
 楊戩は外に出ると、たちまち|眩《まばゆ》い銀の龍になりました。鱗がきらきらと月明かりをうつして、真っ白な雪道に虹色の光が落ちました。
 龍は袋を咥えると、わっと舞い上がり、金霞洞に向かってまっすぐ飛び立ってゆきました。
 雲中子はその後姿が雲のむこうに消えても、まだしばらく見つめていました。しんしんと降る雪が、肩と帽子に積もりはじめていました。
 杏の木に夜色の鴉が留まっていました。
「『最も強く巨きい』あなたに、風邪をひかせるわけにはいきません。どうでしょう、とっておきの茶があるのだが」
 闇の中で、鴉の鱗が輝いていました。鴉は身震いをすると闇に溶け、木陰から、りっぱな髭をたくわえた男が玉柱洞へ招かれてゆきました。


作:辺岡
2024年1月 COMIC CITY 東京150内 封神プチオンリー『師叔も〜いいかい?2』
記念アンソロジー『もーいいよ!』寄稿